死刑についての備忘録

今日の読売テレビの「そこまで言って委員会NP」のテーマは、死刑であった。

この死刑に関する論争は、それぞれの倫理観に根差すところもあって、簡単に譲歩できない。

それについては、いくつかまず抑えるべき点があると思う。

第一に、死刑は完全な抑止力にはなり得ない。人を殺そうと思う人間の中には、「死刑になるのは」と考え思いとどまる人もいるかもしれない一方、しかし本当に人を殺そうという人間は、いざとなれば死刑なんて怖くないはずなのだ。

第二に、この問題は、理性的にも、感情的にも議論されるべきである。理性的に話そうと言って感情を抑圧すれば、それが歪みをきたしてどこかで爆発しかねない。また、感情的に話すばかりでは、国家としてのまともな機構を維持できない。

第三に、死刑を廃止するのであれば、代わりに終身刑を置くというのが前提でなければならない。最高刑が、いつか釈放されるかもしれない無期懲役では、基本的には死刑の代替にはならない。

第四に、死刑を宣告される被疑者の中に、全く冤罪があり得ないと考えてはならない。ただし、冤罪とは他の刑罰にもありえるし、必ずしも冤罪を抱えたまま死にゆくとも言えない。

第五に、死刑は被害者遺族の感情を鎮める効果もあるだろうが、一方で鎮められない感情もある。

こうした点から、私は死刑を存置すべきと考える。死刑は国家による殺人である、間違いない。抑止力も完全には無い。冤罪もあり得るかもしれない。しかし、死刑は存置されるべきだと考える。それは何より私が、そうした犯罪者が税金に養われ獄中でのうのうと生き続けることを良しとしないためである。

ただし、これには2つの留保をつけたい。

第一に、死刑は国民の理解のもとに成り立たなくてはいけない。死刑は国家の権力によって行われ、国家に権力を与えているのは国民である。つまり、死刑を執行しているのは、それぞれの国民であるはずなのだ。そのことを、制度改革によってなり、あるいは意識改革によってなり、知らしめなくてはならないし、反映させなくてはならない。

第二に、死刑は「理解できない人」を追放するための制度になってはならない。今でさえ、異常だと思える事件が起こると、多くのマスコミは犯人の異常な生活を取り上げ、異常な動機を取り上げ、「分からない」とさじを投げて、一方「分からない」と言える「異常ではない自分たち」に落ち着きをもたらしている。死刑はその道具になってはならない。

また、これによって起こることにも理解を及ばせておかなくてはならない。「死刑になりたい」と犯罪を行う人の例である。そういう人は一定数いるだろうが、そこであえて「生かして恥ずかしめてやろう」などと言う人もいる。しかしどうだろう。反省のしようもないほどの罪を犯した人間が、誰にも見られない静かな獄中で「のうのうと」生き恥をさらすのに税金を使ってやるのは、個人的には理解し得ない。